ポケットに荻原井泉水(せいせんすい)編の岩波文庫「一茶俳句集
***紙上遊一下
<その99>湯の里に一茶を思う
長野新幹線が開通して以来、信州、特に北信州路は東京から遠い旅路ではなくなった。長野まで1時間半余り。そこから長野電鉄の特急で45分、終点 の湯田中温泉駅に降り立った。ここ山ノ内町と、もう一つ小布施町。信濃町柏原出身の俳人小林一茶がよく訪れたゆかりの地だ。ぶらりと寄っただけだが、つか の間浸った信州の山気と一茶の句の情感に、しばし心洗われる気分だった。
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今では企業や役所の世界では長野市と東京間の出張は日帰りとなった。信越線で碓氷峠を越えながら釜飯をつついていたころとは違うのである。長野冬季オリンピック(1998年)に間に合うよう新幹線が引かれた。
ポケットに荻原井泉水(せいせんすい)編の岩波文庫「一茶俳句集」。車窓の青々としたリンゴ畑を見たり、黄ばんだ句集をめくっている間に到着した湯田中温泉駅(山ノ内町)。レトロな雰囲気で旧駅舎側には「楓(かえで)の湯」がある。
文字通りの駅前温泉で人気があり、投句箱もあるそうだ。さすが一茶のゆかりの地。町内外から参加者がある俳句大会や句作のサークルも盛んである。山の手側の温泉街を歩くと、人々が自ら詠んだ作品がずらりと並んで風に揺れていた。例えば
<すかんぽや生きる支へはありますか>
すかんぽは酸葉のこと。見上げながら足を止め、思いをめぐらした。
<畑打つや定年知らぬ米農家>
土に生きる人々の確かでしなやかな意志がにじむようだ。
<春雪にけぶる山見つ湯につかる>
その愉悦は山の温泉郷ならではだろう。
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一茶(1763~1827年)は不運と不幸の波を何度もかぶりながら、寂しさ、孤独の中に人間味濃く、感情に素直な句風を創造した人だと思う。芸術的に洗練された芭蕉の世界とは異なる。例えば
<やせ蛙まけるな一茶これにあり>
これは一茶の句の中でも、教科書に載ったりして特に人気があるが、このユーモアと抱き合わせの哀調は彼ならではある。
<我と来て遊べや親のない雀>
<あの月をとつてくれろと泣く子かな>
<これがまあつひのすみかか雪五尺>
一茶の生涯の軌跡を重ね読むのもいいが、一茶のプロフィルをまったく知らない人が読んでも、それぞれの胸に深いイメージが湧くことにこそ名作の真骨頂はある。
一茶は農家に生まれ、幼くして母を亡くした。継母とうまくいかず、14歳で江戸へ奉公に出る。ここで俳諧文化に触れる。長く西国行脚もして洒脱 (しゃだつ)な句風を磨く。俳壇に名は知られたが、生活は不安定だった。信濃の父の死後、遺産分配争いが長く続き、50歳の時やっと解決して故郷に定住し た。それが<これがまあ>である。
そして2年後に結婚し、4人の子供をもうけたが、この初婚では妻ともども子供たちも幼くして亡くした。再婚したが破れ、3度目の結婚をした。自らも病に倒れ、死の前には火事で家を失うという不運にも襲われている。
子を失った悲嘆は次の句に込められている
<露の世はつゆの世ながらさりながら>
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一茶は柏原に落ち着いた後も、この湯田中温泉などあちこちの土地を訪れたり、招かれたりして足跡を残した。こうした文人を大切にし、ついて学ぼうとする風が信州には濃かったようだ。今も「教育県」といわれるゆえんか。
それはさておき、そのため一茶の句碑などは各地にあり、例えば、この山ノ内町には、一茶と、彼を研究した俳人荻原井泉水の一茶・井泉水記念俳句資料館もある。
ちょっと一茶から離れるが、温泉街のつじに大きな碑が建っているのに気づいた。何と明治の相撲取りの供養だという。
彼は当時の東京大相撲の力士で前頭筆頭まで務めたが、1888年9月、ここ湯田中に巡業して場所開催中、病を得て急死した。享年23。なかなか人 気があったらしい。地元の人々は惜しみ、東京の書道家に頼んで揮毫(きごう)してもらい、6年後の命日に碑を建て法要した。年寄名で「二代目玉垣額之助 碑」と記されている。
土地の人情の厚さを象徴するような碑だ。大事にしたい。
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各季節の一茶の句を一つずつ。
新年 <這へ笑へ二つになるぞけさからは>
春 <雀の子そこのけそこのけ御馬が通る>
夏 <恋をせよ恋をせよせよ夏のせみ>
秋 <うつくしや障子の穴の天の川>
冬 <はつ雪や駕(かご)をかく人駕の人>
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小布施町は湯田中温泉から長野市に電鉄線で戻る途中にある。ここでも街に俳句を見かけた。小布施は今、古き良き時代をほうふつとさせる「町並修景」で人気スポットになっている。そして葛飾北斎と栗の町。出会った人見知りせぬ猫。これは次回に。(専門編集委員)
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